2012-05-19

得月院と小川芋銭

得月院入口
5月19日(土) 我が家から歩いて30分で得月院(とくげついん)に着く。
得月院は文禄3年(1594年)に、牛久城主(由良国繁・ゆらくにしげ)の母「妙印尼・みょういんに」の墓と五輪塔(ごりんとう)を祭る寺として建立された。











得月院本堂のすぐ裏側に、小川芋銭(おがわうせん)の墓がある。
小川芋銭(1868~1938)は70歳で亡くなったが、小川家は武家で、親は常陸国牛久藩大目付であった。廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。
生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵がを買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという。身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている。
芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節山村暮鳥野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している。
芋銭の墓は1943年(昭和18年)、自宅近くの曹洞宗の寺院、稲荷山得月院(牛久市城中町258)に建てられた[1]
贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が「小川芋銭の作品」を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄であるため、購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる[2]フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

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